10/13/2025

スーザン・ソンタグって・・・

車で ラジオを聴いていたらこの名前を言っていた。
何の話だったか聞いていなかったけれど、
その名前を聴いた瞬間頭の中に札幌のアパートの部屋が浮かんだ。
そしてスーザン・ソンタグの本が本棚にあった。

あれは何の本だったんだろう?
全く思い出せない。
でも何か本は買ったんだと思う。
そのうち読もうと思って、たぶんそのまま本棚に。

でも本のことはどうでもいいんだ。
あのアパートの部屋を久しぶりに思い出した。
その名前のせいで匂いや窓からの光を感じた。
懐かしい感覚だった。

旅愁という歌

 が好きだ。
自分でも歌っていたとおもけれど、FBの西森さんという人が
歌っていたので伴奏を付けた。


真ん中のガットギターと歌が西森さん。
私は左右のサイドギターとベースとストリングスとピアノを入れた。
けっこううまく行ったと自分では思うのだけど。
こういうのをやる時は伴奏は決してメインよりも目立ってはいけない
のだけれど、その加減が難しい。
全部後ろに下がってしまうと出来として面白くないから。

先日も「明日からホスピスに行くのでこれが最後の投稿になります」
と言う人の弾き語りに伴奏を付けて投稿したのだけど、
グループでの評判は良かったけれど、本人からの
返事はもらえなかった。聴いてもらえたかどうかもわからない。
グループの他の人も「聴いてもらえましたか?」ときいてくれたのだけど、
返事が無かった。
たぶんもう聞く元気も無かったのかもしれない。

この1,2年ほんとに人を見送ってばかりいるような気がする。
次は私だとはわかっているのだけど、
けっこう先送りになっている。
今のところヤバイ兆候も無い。
だけどわからない。
ほんとにわからない。


10/11/2025

チャトGPT

 チャットGPTはしゃべり過ぎる。
  ように思う。
ああ、そこまで聞いてないよ、
考えてるのはこっちだからね、
君のおだてには乗らないよ、

しかし、確かに疑問だったことを順序だてて考えるのにはいい。
今日の疑問は
「何も無い空間の中で生き物はなぜ死ぬか?」だった。
空気が無いからとか、そういう答えを予想していたけれど
彼?が言うことは私の疑問そのものに答えてくれた。
つまり何も無いなら死ななくてもいいだろう?ということへの
答えだった。
彼の答えは哲学的でさえなかった。
いろんなところから色んなものを持ってきて納得させられた。

もう一つ質問した。
「仮にタイムマシンが出来たとしても過去は未来と同じく未定ではないか?」
という物だけれど、ここにもちょっと前にそのことを書いたと思う。
つまりシュレディンガーの方程式が未来と同様に過去にも成り立つなら
過去も確率的にしか存在しえないだろう?
という質問だったのだけれど、
彼は明確にそれを肯定した。
そして同様の考えを持つ学者のことも教えてくれた。
もっとも気に入った彼の回答は
時間は過去から未来に流れているように感じる感覚でしかない。
ということだ。
つまりエントロピーは増大し続けるので過去へ戻ることはできない
ということ。シュレーディンガーの方程式は過去に対しても成り立つ
けれど未来方向にしか現実には成り立たない。
ということだ。

・・・と妙に納得したのだけれど、
良く考えてみると今まで自分が考えてきたことをまとめてくれただけ
のような気もする。

だいたい一つの質問に対してしゃべりすぎる

10/06/2025

無言歌

 アザラシヴィリの「無言歌」について以前書いたけれど、
その後あの曲はアザラシヴィリのオリジナルじゃなくて
歌詞のついた元歌があるんだよ。と日本人が自分のホームページに
書いているのをみつけた。
その人によると


だと言っている。
本当だろうか?
この人はその理由を知人が報せてきた歌が同じだからだ、
と言っている。
色々な人がその歌を歌っているからだ、と言う。
ただそれだけの理由だ。
ちゃんと時代考証をしたのだろうか?
まずグルジアの無名のソングライターがこんな歌を作れるだろうか?
曲全体で6回も転調しているような歌を作れるだろうか?
私は無理だと思う。

これは逆だと思う。
アザラシヴィリの曲を歌にして歌謡曲にしたというのが本当ではないだろうか。
私もほんとのことは知らない。
その歌謡曲を聴いた限りでは曲のメロディーも構成も同じだ。
原曲と言うならもう少し粗削りではないだろうか?

アザラシヴィリの他の曲を聴いてみるとわかるけれど、
他の曲にこの無言歌とよく似た曲調が現れる。
とても良く似た印象を受ける。

私は「無言歌」はアザラシヴィリ本人が作った曲だと思う。




10/04/2025

原子心母とクレイジー・ダイアモンド

 1970年の10月5日にPink FloydのAtom Heart Motherが
リリースされた。それからちょうど55年目が明日だ。
さっきどこかのFBにシド・バレットのことが投稿されていた。
彼が亡くなる6カ月前にファンが彼の家を訪ねたことがある。
と書かれていた。
そういうこともあっただろうな、と思う。

その投稿に気になるコメントがあった。
その記事がすぐにいなくなってしまったので正確には書けないが、

シドがいたらああいう素晴らしい音楽はできなかっただろう。
彼はバンドの足手まといだったのだから。

という内容だった。
そうだろうか? 確かに彼の音楽性は他のメンバーとは異なっていた。
原子心母以降の音楽にシドが入る余地は無かったと思う。
しかし問題は彼の存在そのものなのだ。
彼の存在がその後の音楽全てに影をおとしている。
それは誰も否定できないはずだ。

ある日バンドの練習のためスタジオに車で向かう途中
誰かが「今日はシドを拾うのはやめよう」と言った。
その日からバンドにシドは居なかった。
誰がそう言ったかは明記されていないが、その時の状況
からしてロジャーだと思う。
デイブはまだバンドの新人だったのだから。
シドの代わりにデイブがメンバーになったようなものだし、
リックもニックもそんな非情なことは言わないだろう。

その時からバンドはシドに対して負い目を持つことになる。
シドは確かに薬中だったし精神状態もおかしかった。
しかしそんなにひどいやり方でバンドから外されるとは
思っていなかっただろう。
バンドの練習に一人だけ呼ばれなかったら、どんなに悲しんだろう。

思うに音楽性などよりも彼の存在がバンドには必要だったと思う。
演奏も歌も歌わないにしても、そこに彼がいて欲しかった、のだと思う。
そうすれば彼の悲しみをずっと後まで引きずることもなかっただろう。
そして、その後のバンドの曲の歌詞にはシドが幽霊のように現れる。

ある日バンドの練習スタジオに予告も無しにシドが来たことがあった。
シドはドラッグによって以前の姿を全くとどめておらず、
最初にスタジオに入ったロジャーもその人が誰かわからず、
デイブに彼は誰かを訪ねたそうだ。
デイブはそれがシドだと伝えた。
ロジャーはそのあとずっと涙が止まらなかった。
シドは何も言わずにスタジオを出て行った。

恐らくそのシドの姿はメンバー全員の心の中に残ったと思う。
だからピンク・フロイドの音楽にはシド居るし、
シドが必要だったんだと思う。

友達

 は居ない。

今日昔の仕事のお客から電話があった。
やって欲しいことがあると。
でももう機材も全て処分したので出来ないと告げた。
人と話すの機会はあまりない。
だから今日はその希な日だった。

義理の息子が入院するというので桜木町まで車で送った。
その後みなとみらいで食事をした。
みなとみらいは少し変っていた。
MINIのお店がある。
12月に法定点検だからと葉書がそこから来た。
でも今回は近くのオートバックスに頼もうと思う。
みなとみらいのディーラーは高いから。
前回の車検は50万かかった。
まあ、ブレーキを4個交換したからしかたないのだけど
でもちょっと高かった。

松尾と花輪が逝ってしまい、気楽に電話をかける相手がいなくなった。
先日、先輩(と言っても年齢は同じ)の柴田さんに電話をした。
鳴っていたけど出なかった。
その後向こうからもかかって来ない。
もう一度かける勇気が無い。

そういえば、半年くらい前に野池さんにも電話した。
鳴っていたけど出なかった。
向こうからもかかってこなかった。
もう一度かける勇気がないのでそのままだ。

Williamは電話をすれば出るはずだ。
でも忙しそうだから躊躇する。
またどこかで会えそうな時に電話しよう。

キタローに電話したのも1年くらい前だ。
忙しそうだった。
また電話する勇気が無い。

そうそうずっと昔の沖縄の友達に電話したことがある。
全く知らない人が出た。
その番号は他の人のものになっていた。

佐賀の並川に電話できたらいいのに。
あの訛ったしゃべり方を聞きたい
「ああ、こがわさん? どおよ、最近」
頭の中で彼の声がリアルに再生される。
ああ、芹沢さんの声としゃべり方にそっくりだった。
あれは同じ九州だからだろうか?
ちょっと驚くほどそっくりだ。

先週並川からのメールを発見した。
1通だけ残っていた。
2015年の9月26日だ。

 「久しぶり、元気にしてますか?
  私は、パーキンソンにかかってしまいましたが、元気にやってます。」

ちょうど10年前だ。
偶然か?
このメールは会社のservice@stl-jp.comというアドレスに来ていた。
このアドレスは普段使わない。
ホームページのどこかにあったのだろう。
たぶん見ていなかった。
これに返信した形跡が無いから。
ああ、返事を書くんだった!と今切に思う。
ごめん。
その後札幌に行った時に電話した時はもう電話に出れなかった。
しばらくして並川君の友達から電話が来て亡くなったことを知った。
思い出してしまった。

並川君は面白い人だった。
札幌である日とんでもない物をとんでもない量持ってきた。
また彼女ができたことをアパートまで言いにきた。
また、飼っていた猫を公園に連れて行ったら帰って来ない
と言ってきた。
彼は札大を卒業して国に帰る時に
一緒にコンサートに出た。
並川の彼女のトッピとその友達のヒゲちゃん(彼女は福島の人だった)
と4人で歌った。
もう吹雪の江別の公民館。
真っ白な雪の夜だった。

並川が札幌を去る時、私は送って行っただろうか?
記憶が無い。
送ってあげていたらいいけど。

ごめん。並川