あの歌は謎があることに気が付いた。
『キャンパス通りが炎に燃えた あれは雨の金曜日~』
というのは一体いつのどこだろう?
「キャンパス通り」と言っているのは明らかに駿河台の明治大学の前の通りだろう。
あの通りがバリケード封鎖されたのは2回。
1回目は1968年6月21日(金曜日)。
この日が最初だ。
神田カルチェラタンと言っているのはこの時だと思う。
しかしバリはすぐに機動に排除されてしまったはずで、燃えてはいない。
この日は確かに金曜日だけれど、雨ではなくどっちかというと晴れていたようだ。
あるいは機動の放水を「雨」と表現しているのかもしれないが、放水があったという
ことはどこにも書かれていなかった。
でも放水と催涙弾の乱射はあったような気がする。
比較的簡単にバリは解除されたようだから。
だからこの日が「キャンパス通りが 炎に燃えた」日だったように思う。
写真はネットから。無検証。無許可。
もう1回は1969年の1月18日。この日は東大の安田講堂の日だ。
天気はこの日も晴れ。土曜日だった。
この時も駿河台の学生はすぐに排除されて燃えてはいなかったようだ。
しかし安田講堂は「燃えてた」と言えないこともない。
ニュース映像では火炎瓶がボンボン燃えていた。
しかも機動の放水がすごかった。
まるで大雨のようだった。
この日はどうだったのだろう?
東大構内には入れなかったんじゃないだろうか。(知らないけど)
写真はネットから。無検証。無許可
じゃあ、他に雨の金曜日はあったかと調べると、それらしい金曜日は無いけれど、
1968年の6・15(土)(何の日か忘れたけど、反戦デー)。日比谷。
この日は雨。
同じく1968年 10.21(火)の国際反戦デーが雨。
私は高校生だったけれど、彼女は2つ下だから中学生だったと思う。
中学生がそのあたりをうろついていただろうか?
あるいは「雨の金曜日」は詩人特権で言っているのかもしれないけれど。
私が高校生でべ平連のデモに参加していた時、確かに中学生のグループもあったけれど、
そのあたりは全くわからない。彼女がどんなだったのか。
どこかに高校中退と書いてあったから自由にやっていたのかもしれないけれど。
『河岸(かわぎし)の向こうに僕たちがいる』
というところはどうだろう?
「キャンパス通り」と言ってるからには「河岸」というとやはりお茶の水駅前
の神田川(外堀)だろう。
駿河台がバリ封鎖されたり機動に排除されたりしてるというと、川岸の「こっち」
つまり駿河台側にはいられないだろう。中学生は。
「河岸のむこう」と言っていながら、そっちがわにいる自分を言っている。
つまり医科歯科大学の側の川岸にいて見ているのだろう。
私はその時(神田カルチェラタンの時)はそのあたりにはいなかったので
わからないけれど、多分お茶の水橋は閉鎖だっただろう。
その向こうがそういう状態だったのだから。
お茶の水橋の医科歯科大に立つと、神田川の深い谷を隔ててその向こうに
活動家の学生と機動隊が見えたに違いない。
それを対岸から見ていたら神田カルチェラタンは燃えていたように思ったかも
しれない。
いずれにしても学生運動はあの時代の一部であり、ゲバルトな活動をしていた
学生はごく一部だった。
他の学生、市民は何らかの討論会を開いていたり反戦歌を歌っていたり、
あるいは何もしなかったり、何も考えなかったり、活動家を批判したり、
反対側(右)にいて相対する活動をしていたりだった。
「僕たちはもう 語らないだろう」
「僕たちは 歌わないだろう」
と言っているからは、彼女はごく普通の(活動家ではない)学生だったのだろう。
あるいは新宿の地下広場には行ったのかもしれない。(あくまで想像)
近年あの当時の反戦活動全てに批判的だけれど、それはまちがいだ。
大半の学生・市民は普通に暮らしていた。ただしそれなりに社会の問題については
考えていて、意見を言う人が多かった。
あの時代があって今があるのだから。
この歌はわざとか、記憶違いか、で事実とは違うことを歌っているのかもしれない。
燃える安田講堂とバリケードで封鎖された駿河台の通り。
あるいはデモを見ていた(参加していた)雨の日の情景がそれに重なっていたの
かもしれない。
あるいは全てはpoetic licens。