8/30/2017

北海道

明日北海道に行く。
4泊5日だ。
一人の旅行では長い方かもしれない。
バイクに乗ろうと思ったけど、たぶん、やめた。
この前熱中症で救急車を呼んで弱気になった。
おとなしく行こう。


8/27/2017

藤井川ダム・小松寺・石塚駅

Google Mapを眺めていた。
来週北海道に行くので下見をしていた。
それとは関係なく田舎のことを思い出して、あそこは今どうなっているのだろう?
と茨城県に飛んだ。
小松寺の先に藤井川ダムがあるが、今はリクリエーション施設ができて
にぎやかになっている。
そのダムができた頃に田舎の家(母の実家)からそこまで、
隣の貴雄さんの牛車に乗って行ったことがあった。
それは確か小学校の4年生くらいの時だ。
いったい家からどのくらいの距離だったんだろう、と調べてみた。
3.9Kmあった。約一里だ。
一緒に行った貴雄さんが写真を撮ってくれて残っている。

また別の時、近くの町から家まで歩いたことがあった。
というのもバスが出てしまい歩いて帰ろうと思ったからだ。
後でわかったのだけれどバスは結構本数があったのでしばらく待てば次の
バスが来たはずだった。
歩きながらとても暑かったのを覚えている。
また歩いている途中でバスに追い越され、そのバスに隣のおばさん
(ハルさんと言ったと思う。貴雄さんのお母さん)が乗っていて
僕に気が付いて手を振ってくれたのを覚えている。
その町は石塚と言った。
町から家までは4kmだった。丁度一里だ。


バスはどこから乗ったのだろう?とストリートビューを見ていたら
昔のことを思い出した。
確かバスは駅前から乗るはずだった。
その時確かまだ汽車(ディーゼルかも)が走っていた。
だから石塚駅がまだあった時だ。
駅前からまっすぐ商店街があり、お店はけっこうにぎわっていたように思う。

石塚駅から家に向かう途中、町をはずれるあたりに火の見やぐらがあった。
バスは確かその脇を通っていた。
記憶では「十文字」という地名があったように思う。
Google mapには記載が無いが、確かにあったように思う。
町から家までは舗装されていない砂利道だった。
バスは土煙を上げながら走っていた。
今では道はきれいになっているけれど、周りの景色は基本的に
変わっていない。
畑だ。
途中起伏がかなりある。
ストリートビューで追ってみると全て見覚えがある。
最後の坂を上って家に続く脇道の入り口にある雑貨屋が見えた時は
「ああ、もうすぐだ」と言った記憶がある。
夢で時々見る、延々と続く田舎道はあの風景なのかもしれない。
今は、たぶん私を覚えている人は誰もいない。

北海道のところで「花畔(ばんなぐろ)」という地名のことを書いたけれど、
その田舎の近くに「木葉下(あぼっけ)」というところがある。
これもちょっと読めない。


この左手のあぜ道に田んぼで仕事をしていた何人もの人達が座ってお昼を食べていた。
たぶん4歳か5歳くらいだった私は祖母(チヨさん)と一緒に家から
ヤカンにお茶を入れてそこまで持って行ったのを覚えている。
なぜ覚えているかというと、自分にもお茶をすすめられたのだが茶碗が無かった
のでヤカンの蓋で飲めると言われた。でも空気穴が開いているのでそこを指で
押さえながら飲むんだよ、と言われた。その時のことをとてもはっきり覚えている。





8/23/2017

ギター弾きたがり

タイトルなんてどうでもいいのだけど、
今日のYahooニュースで「歌声喫茶」?が最近流行っているというようなことが
書かれていた。
あれはどうも好きになれない。
カラオケよりも好きになれない。
なんとなく民*の匂いがする。
「なぜかロシア民謡が多い」とか書かれていたけれど、
当然と言えば当然だろう。
もともと民*が歌声喫茶をやっていたのだから。
最近のは全く政治団体には関係ないと言われても、好きになれない。
ああいうのはだめだ。

かと言って、それじゃあ「弾き語りライブ」みたいなのはどうか?
というと、あまり好きじゃない。
好きじゃないけど時々出たりしてる。
ああいう形態は我々の世代で終わりだろうな、と思う。
次の世代は同じようにステージで歌ったとしても、何か違うだろうな。
まず、説経臭い歌はないだろうな。
昔を懐かしんだり、遥か昔の歌を歌ってそれが同世代に
結構受けていたりということはどうだろう?
それはそれなりにありそうだけれど、歌は我々の時代の歌じゃないだろう。
今の弾き語りライブはほとんどがエレキ禁止だけれど、
それは逆にエレキとエレアコばかりになるだろうな。
ドラムもOKかな。

今の弾き語りライブでもエレキ(大音量でなく)の音はあってもいいとおもうけれど、
大体が禁止だ。
キーボードはOKでどうしてエレキ禁止?
と思う。

あと30年後のお店のライブを見て見たい気がする。
ぎりぎり生きているかもしれないけど、
どんな音でどんな歌を演奏っているんだろう?
と時々思う。

8/14/2017

柳田芙美緒

今朝テレビで特集していた。
この方は存じ上げなかった。
静岡連隊に従軍して写真を撮っていたそうだ。
出兵する兵士たちを建物の上から撮った写真と、遺骨になって帰って人々の首に掛けられた白い箱の列の写真はすごく説得力がある。残酷な写真だ。
彼が自分の写真集に載せた見開きの大きな写真は
戦争が終わってから銃剣を喉に刺して自殺した兵士の写真だった。
その写真集が世に出た時批判する新聞がけっこうあったそうだ。
しかし写真の本当の力というのはそういうものだと思う。
焦点をぼかしたり、間接的な写真では表現できないものがある。

トランクいっぱいのプリントとネガが焼けずに残ったのをみつけて
トランクに抱きついて号泣したというのは良くわかる。
大勢の戦死した兵隊の写真がその中にあったからだ。




8/09/2017

記憶喪失

これを書いたかどうか忘れた。
これは記憶喪失か?
ま、いいか。

高校3年の時だった。
体育の時間はたいていハンドボールだった。
だいたい球技は苦手できらいだった。
ゴールポストの手前に立って、秋山のジャンプシュートを防ごうとした。
それは覚えていた。でもその前のことは思い出せない。
その後のことはだいぶ後になって思い出した。

私は秋山に倒されて後頭部を地面にぶつけたようだ。
痛みは全く無かったが、ジンジンしていた。
その直前まで眠っていて突然起こされたような気がした。
だからなぜそこにいるのかが理解できなかった。
しばらくコートの外で立っていた。
私は景色を見渡していた。
一人の同級生が「お前大丈夫?」ときいてきた。
そいつも一度記憶喪失になったことがあるゴールキーパーだった。
大丈夫かどうかわからなかった。
そいつは自分の経験から気が付いたのだろう。
先生に「ちょっと保健室に連れて行きます」と言って
私の腕をとって歩き出した。
そこから保健室に歩いて行く時に気がついたのは
少し前のことをどんどん忘れて行くことだった。

図書館の前を通り過ぎる時には自分がハンドボールをしていたことも、
コート脇に立っていたことも忘れて行った。
結局保健室に着いた時には自分がどこからそこに行ったのか
わからなかった。
連れて行ってくれた友人が保険の先生に、「こいつ記憶喪失ですよ」
と言うと、先生は「大丈夫だと思うけれど、様子を見ましょう」
と言っていた。
それからベッドに横になって天井を見ていた。
誰か他の生徒が気分が悪いとかで入ってきた。

そこまでは、ベッドに横になっていた時は全く覚えていなかった。
その後半日くらいしてから徐々に思い出した。

途中その連れてきてくれた友人が「大丈夫?怖くない?」と聞いてきた。
彼は自分が記憶喪失になった時、わけがわからなくて怖かったそうだ。
私は別に怖くは無かった。
そのうち治るだろうと思っていた。
楽天的な性格が効いたのだろう。

その後は記憶を失うことはなかった。
でもハンドボールで倒れる以前のことはもう思い出すことがきなかった。
それがいつまでだったのか、わからない。
1日分なのか数日分なのかもっと長い間の記憶を失ったのか
今となってはわからない。



8/06/2017

8月6日

こうやって毎年書いてるとそのうち同じことを書いてるのに気が付かなく
なるかもしれない。

…というわけで書こう。
8時15分にNHKのテレビを見ていた。
広島の中島町のことをやっていた。
母と一緒に平和記念資料館に行った時、この街のレリーフの前で
母は友人の家のあった場所を指さして、
「あの日の前日の夜は友達とここにいたのよ」と言った。
でも母は仕事があったので家に帰って、直撃はまぬがれた。
私はもっとはっきりその場所を覚えておくべきだった。
すっかり忘れてしまった。

そんなことを考えていると子供たちの平和宣言が始まった。
チャンネルを変えた。
いったい誰があの話し方を教えているんだろう?
先日の沖縄慰霊の日もそうだ。
なぜ子供たちにあんな芝居じみた話し方をさせるのだろう。
ちっとも良くない。
もっと子供が普通に話す話し方で自然に話せばいいのに。

あの話し方は何か典型があるのだろう。
青年の主張とかもそうだ。
あの話し方では全く聞く気にならない。
文章を後から読んだ方がいい。
不謹慎と言われようとかまわない。

たとえばポップスの歌をオペラ歌手が歌うとあんな感じになる。
形式で歌ってはいけない。
形式で思いを語ってはいけない。

・・・と思う。









8/02/2017

父のこと

私の父は銀行マンだった。
その前は大蔵省にいた。
私がまだ子供の頃に、子供二人を座らせて
「お父さんは会社を辞めた」という話をした。
まだ子供だったからその意味がわからなかった。
たぶん何の不安も抱かなかったと思う。
だからその時大蔵省を辞めて銀行に入ったのだと思う。

だいたいそこまではわかっていたのだけど、父の写真を探していたら
その前があったと思われる写真を見つけた。


この写真の裏には「東京帝国大学卒業、日産自動車株式会社」とある。
たぶん大学を出て日産自動車に就職したのだろう。
この写真はすごく父らしい感じがする。

そしておそらくその後に軍に徴集されたのだろう。



写真は二等兵だ。
この写真は父があまり見せなかった表情だ。
とても不安そうだ。
たぶん私が怖がりだったことから考えると父も怖がりだったかもしれない。
ここに行って「大丈夫だよ!」と言ってやりたい。

戦争が終わっても長い間シンガポールの英国軍の捕虜収容所にいた。
日本に帰ってくるのはずいぶん遅くなったらしい。
前にも書いたけれど通訳というか翻訳というかの仕事をまかされていたらしい。

友人が言うにはこの写真は私にそっくりだということだ。