8/29/2016

無言歌 Vazha Azarashvili

昨日は日曜日。
コンビニでお弁当を買って、都筑中央公園に行って食べることにした。
いつもは人の居ない広場に親子連れがたくさん。
ベンチに座って前のバーに足をかけて、お弁当を食べた。
非常によろしくない恰好だ。

スマホでFMを聴きながら。
最近聴かなかったキラクラをやっていた。
いつもは聞き流して聞いているのだけど、昨日の最後の方でチェロの曲がかかった。
これはクラシックなのだろうか?と思った。
どこか懐かしい、いつか聴いたことのある感じの曲だった。
「ア… の無言歌でした」と言っていた。
作曲者の名前が聞き取れなかった。

家に帰って調べた。
Vazha Azarashviliという人らしい。
アザラシヴィリだろうか。
YouTubeにあるだろうと思って検索した。
あった。

FMでやってたのはもっと小編成だったように思うが、この曲だ。
いい曲だと思う。
このアザラシヴィリさん、どうやらジョージア(グルジア)の作曲家らしい。
YouTubeには本人と思われる映像がいくつかあるが、読めない!


8/19/2016

CG景観ソフト(3) Terragen

現在TerragenはTerragen4のBeta版が出ている。
Terragenは最初から使っているがTerragen3で大幅に変更があったように思う。
それまでは結構適当な設定でそれなりの絵が作れたけれど、Terragen3になって
設定が細かくなって、機能も増えた。
昔のTerragenで遊んだ画像はあまり残っていない。

旧Terragen


これは確か、グレイスケールのビットマップ画像データをマスクにして地形を変形させた
ものだと思う。この時点でも大気やオブジェクトの表面などを細かに設定すれば
かなりきれいな画像ができた。

Terragenはその名前の通り地形を作るのは簡単にできる。
また大気や霧、水、雲などリアルな設定ができる。



樹木はpopulationで植林することができるが、エリアの端っこが見えるとこのように
バリカンで刈ったようになる。
後ろの山だが、デフォルトのままだとこの山が必ず見える。



ここで使っているpopulationだがほぼ同じ2台のWindows10 64bitのマシンで片方はエラー
を起こしソフトがダウンしてしまう。何度やっても同じ。
その理由がわからない。
もう少し形のいい樹木のオブジェクトがあればよいのだが。
たぶんどこかにあるだろう。

Terragenはまるで仮想のGoogle Earthのように思える。



ま昼間からこんな風に見えるかどうか知らないが、適当にセットするとこんな感じ。


思うに、CGで景色を描かせる意味は現実には無い景色を描くことだと思うが、
やっているとできるだけ現実に近い絵を求めるようになる。
だったらどこかで写真撮ってくればいい、とは思う。

しかし、まあ現実に山に登ってこんな景色をみるのはかなり労力がいる。


しかし、すばらしいのはこんな絵を描くことができるソフトが無料ということだ。
いろいろ制限はあるが、ある程度満足できる絵は作れる。

あとは、動画だ。
動画でこの景色の中を飛ぼうと思うと6万円くらい払わないといけない。
まあ、昔のソフトに比べたら安いものだ。

8/18/2016

CG景観ソフト(2) レイトレーシング

しかし、一番最初にポイントごとのデータを表示する方法をやめて、
ワイヤーフレームにした所で、もしもポイントごとの表示をもっと
追及していたら今の自分も少し違う生活をしてたかもしれないと思う。

レイトレーシングというものが出たのはもっとあとの1980年前後だったと思う。
私がCGをやっていたのは1979年だから1年間の時間があったはず。
スターウォーズで満足してしまったのが間違いだった。

対象物の1点が画面のどこに投影されるかを計算するのは、ワイヤーフレームの
隠れ線消去よりもはるかに簡単だ。
その1点がどのような色(輝度)で画面のどこに表示されるかを計算すればいい。
はみ出した点は単純に表示しなければいい。
基本的にはそれだけだ。

まあ、当時のPC8001では色で表現することは不可能だったから、
モノクロのディスプレイを使って白黒8諧調で表示できないこともなかったかも。
それを追及して、どこかのコンピュータ会社に入り込んで1,2年で
開発したらソフト屋になっていたかもしれない。

問題はディスプレイの表示能力と計算速度だったかもしれない。
当時はBASICが便利だったのでそれを使っていたけれど、
BASICでレイトレーシングを細かな画素でやるには相当時間がかかったと思う。

まあ、今だから言えることだけれど。



CG景観ソフト(1)

CGというものを最初にやったのはNECのPC-8001だった。
1976年だと思う。訂正:1979年だった。
ASCIIに載っていた海外のソフトを参考にしてBASICで作った。
当然速度は遅いのだけれど、当時としてはそれ以外なかった。
あれはよく作ったなと今思う。

ディスプレイに線や点を描くのはBASICが持っている機能を使うだけだが、
立体的なものを平面的なディスプレイ上にどう描けばいいかについては、ほとんど
参考書が無かった。
それで考えてわかったのは、PCのディスプレイが透明なガラスだったと仮定して、
ガラスを通して向こうに見えるもの、あるいは景色の上の1点は
そのガラスのどこを通るかを計算すれば良いのではないかということ。
中学・高校の数学の記憶を駆使して対象物の1点と自分の目を通る線分が
ディスプレイガラスのどこを通るかを計算した。

それで1点が決まる。
それで何点かを計算して描いてみると、なんとなくわかるが、
対象物を描いているようには見えない。
それで当時PCでやっと使われ始めた「ワイヤーフレーム」っていうのはどうやっている
のだろう?と考えた。
対象物の外形を線分で描くことを想定して、対象物を線分で分けてデータを作った。
最初に作ったのは単純な立方体だった。
その線分データの両端の各点がディスプレイガラスのどこを通るかを先の方法で
計算した。
全ての線分を計算してディスプレイに表示すると見事に立方体が表示された。
「おう、できるじゃないか!」とうれしかった。
この時点で遠近法的に表示するにはカメラレンズの焦点距離というパラメータが
必要だと気が付いた。

次に考えたのは、当時上映されていたスターウォーズのXファイターがデススターの
溝の中を飛んでいるシーンが作れないだろうか?と考えた。
それで広い平面データを格子状のデータとして作り、その中央を溝の形状にした。
そしてその溝の中ほどに橋(普通の橋の形状)を作って、ここをくぐろう、と思った。

それをやる前までは気が付かなかったのだが、なんとなくワイヤーフレームで
データを作って先の方法で表示すれば後はPC8001の表示機能がやってくれる。
と思っていた。
ところが、当然なのだが、対象物を遠くから見ている分には全体がディスプレイの
中に納まるのでちゃんと表示するのだが、
線分に近づいて線分が画面からはみ出した時はその線分は正常に表示されない。

当時のPC8001は640×480(だったろうか?)
訂正:160×100しかなかった。
の画素しかなかったからこの値を
超えた場合は、画面を飛び出して表示される線分を想定して、
線分のどこではみ出すかを計算して、その点を新たな線分の両端にしなければいけない。
その方法はどうしたらいいかは全く参考書が無かった。
言葉の上では「隠れ線消去」(と言ったろうか?)という言葉はASCIIなどでも
見られたが、それはどうすればいいのかが書かれたのはだいぶ後だった。

その隠れ線消去の計算が大変だったように思う。
左右上下にはみ出すのはいいとして、向こうから手前に(画面を)はみ出す場合も
ある。
そのすべての場合を設定して計算しないといけなかった。

で、それら全ての計算をさせた。
それを画面に表示させるのだが、当時のPCの画面は粗すぎてきれいに見えない。
そこで考えたのはXY-プロッターに出すことだった。
会社にローランドDGのプロッターがあったのでそれで書かせることにした。
そうすると隠れ線消去の画面幅が大幅に拡大することができた。
100分の1mm精度でA3横向きの大きさに出力できた。

それで描いた溝と橋の画像は非常に綺麗だった。
バンクをかけなかがら溝に入って、橋をくぐって外に出る。という一連の画面
を十数枚のA3用紙(会社の)に描かせた。
1枚を描くのにものすごい時間がかかったけれど、満足だった。
その描いた紙が1枚も残っていない。
たぶん引っ越しの時に処分してしまったのだろう。

8/15/2016

なぜ書かない?

私の子供たち、一緒に暮らしていた人がいつかこれを読んで思うかもしれない。
なぜ…を書かない?と。
それは書かないのではなく書けないから。
そのうち書けるようになるかもしれないけれど、
書かずに終わるかもしれない。
ごめん。
今は書けない。

8/14/2016

単なる連想

棒高跳びを見ていた。
ポールがケースに入って積まれているのがテレビに映った。
あれはまるでハングがケースに入って積まれているのにそっくりだ。
そう考えるとドキドキしてくる。
このドキドキはいろんな時に出てくる。
ちょっと高いところに行って前から風が来る時。
崖っぷちに立った時。
鳥が滑空して降りてくるのを見る時。

忘れないように時々書いておこうと思う。

朝6時前に起きて、テレビの天気予報を見る。
たいていは渡辺さんが解説している。
風向きと強さ、それに今日の天気を確認して、行けそうだったら準備をする。
ハーネスのケースにヘルメットとタイヤが入っているかを確認して、
手袋とサングラスも入れる。
それを持ってガレージの車に行き後ろの席に積む。
車を外に出して、フロントにステーを立てる。
ステーはパイプで作った自作のもの。
強力なマジックテープでバンパーに取り付ける。

それからケースに入ったハングをガレージから担ぎ出し、車の上に載せる。
車の屋根にはスキーヤリアを固定しているので、そこと前のステーに
ゴムで縛り付ける。
プロシード・マビーだと前後にはみ出す部分はあまりない。
固定されているのを確認して車を走らせる。

首都高に乗り常磐道に向かう。
途中空の様子が気になる。
曇りはいいが、雨はだめだ。
ハングを積んでいるとあまり早くは走れない。
外れたことはないが、バタつくことはある。

足尾のスクールに着くとかなりの人がもう山に向かおうとしている。
知り合いに声をかけ風の様子を聞く。
いつも一緒になる大学生の女性がいる。
目が合うと会釈する。とてもかわいらしい人だ。
でも筑波大の学生らしいということ以外何も知らない。
親しいハングの仲間とバカ話をする。
それからショップに行って山に登るため名前を書く。

そこからが問題なのだが、
スクールのマイクロバスに余裕があるときはなんとか載せてもらえる。
そうでない時、あるいはすでに出発直前の場合は積んでもらえない。
その時は、知り合いで車で山に向かう人を見つけて載せてもらう。
それもできない時は自分の車で山に向かうが、
たいてい誰か便乗する人がいるのでその人のハングも積んで
山に向かう。

テイクオフのあたりはハングで埋まっている。
その手前か通り過ぎたあたりに車を停めて、とりあえずハングを下す。
下したハングはそのままにして車を駐車場までおろす。
駐車場はテイクオフから歩いてちょっとある。

ハングに戻って空いている場所を探してそこまで担いで運ぶ。
空いているのはたいていはずれの方だ。
冬場はけっこう雪が積もっていたりする。

ハングを組み立てるのは一種の儀式だと思う。
他の仲間にそう言ったら、自分もそう思っていると言っていた。
一連の作業を毎回全く同じように行う。
逆に言えば、全く同じように行わなければいけない。

まずケースのチャックを開けて、バテンの束を取り出し、ハングの機体を出す。
アップライトを広げて機体を起こす。
両翼を7部ほど広げる。
私の場合、バテンをまず右翼内側から入れて行く。
入れながらいつも思うことは「こんなゴムで本当に固定できてるのか?」ということ。
両翼にバテンを入れたら、ノーズのバテンを前から差し込み、カバーをする。
そして…名前が思い出せない…
クロスバーをキールに留めるワイヤー(何て言ったろう?)をガチョンと留める。

ちょっとまて、ノーズバテンはセールを張ってから入れるのか?
張る前か?
なんとなく張ってからのような気がする。
いや張ってからだろう。風のある時は誰かにキールを支えてもらって
よいしょと入れたように思う。
それからタイヤを付けて、バリオ(高度指示器)を付ける。

ハーネスは広げてハングにカラビナで吊るしておく。
ケースもたたんでハーネスに入れておく。

それからハングは置いておいて、テイクオフのランチャーまで歩いて行く。
そして他の人にテイクオフの様子を見る。
風の強や、皆がどこに向かって飛んでいくかも確認する。
と言っても私の場合はパラがたくさん飛んでいるいわゆる「パラマエ」
には行かず「サルカベ」と呼んでいた峰の方に向かうのが常だった。

私はいつもランディングの風向きが読めないので、テイクオフ前に
確認しておくか、スターターの人に聞いておく。
微妙な風向きの場合が困る。

それから自分のハングに戻る。
ハーネスに左足から入り、右足、そして前のジッパーを留め、
レスキューパラシュートを胸の前にジッパで固定する。
たぶん全体で30キロを超えると思うが、あまり重くは感じない。
ヘルメットをかぶって、テイクオフに向かうハングの列に並ぶ。
その時が一番辛い。
中腰で機体を持ち上げて少しずつ歩かなければいけない。

自分の順番が来る。
スタータの人はたいてい知ってる人なので挨拶をかわす。
その日の注意をくれる。
風の状態が良くない時はまたなければいけない。
記憶では長く待たされた時はあまり無かったように思う。

風が強めの時は誰かが支えてくれて、
2歩ほど歩いた時にはもう機体は浮いている。

風が弱い時は、とにかく走る。
ハングを始めた頃は変な癖があって良く怒られた。
それは、なかなか浮かないと自分でノーズを持ち上げてしまうことだ。
そうすると失速して飛べないか不安定になる。
それで自分で飛び出し方を決めた。
目はノーズから離さず、機体の角度を変えない、
そのまま走り始め機体が浮いても足は止めない。
これでほぼ100%安全に出ることができるようになった。

ここまで書いていて、もうドキドキが止まらない。
あの気持ちのいい興奮と緊張状態だ。
もう一度飛びたい。
できるなら。

8/10/2016

ヨーゼフ・パステルナックと「戦争の音楽」

世の中には「生かされていると感じる」と言う人が多い。
そういう私もそれをすごく感じる。
様々な分かれ道を思い出してみると自分がいま生きていることが不思議でならない。
それと同じように「導かれている」と感じる事も多い。
前にも書いたが、偶然入った本屋で「これだ」という本に巡り合うことが多い。

今日はなんとなく宮沢賢治の詩集のサイトを開いて眺めていた。
その「冬と銀河ステーション」「というタイトルが気になって、それを読んでいた。
途中にJosef Pasternack という指揮者の名前が出てくる。
全く知らない名前だ。
それを検索するとWikiがあった。
それを読んでみると1908年にメトロポリタンオーケストラの主席指揮者になった
トスカニーニのアシスタント指揮者に1年間なっていたことがあるらしい。

それがどうした?ということなのだけれど、
私はトスカニーニの大ファンだ。
それで半年ほど前に立ち寄った本屋に「戦争の音楽」(だったかな?)という本を見つけ
それを読んでいたところだったから。
その本はブルーノ・ワルター、ウィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・マエストロ・
トスカニーニ、なんとかフォン・カラヤン(ひどいなぁ)、らが戦争の前後どういう行動を
とっていたかが書かれている。
当時(私が高校生の頃)はフルトヴェングラーはナチスに協力した指揮者というのが通説だった。
しかし、本を読んでみるとどうも結果的にそうなってしまったけれど、本人にはそんな気持ちは
無かったようだ。というか政治音痴だったようだ。思想にも興味が無かったようだ。
ユダヤ人の指揮者、演奏家がなぜドイツで演奏できないのかがわからなかったようだ。
それでユダヤ人演奏家が国内に残って演奏できるように総統にもちかけていたようだ。
それで総統の反感を買っても本人ははっきりその理由がわかってなかったようだ。
音楽のことしか頭になかったようだ。

一方のトスカニーニだが彼はこれまでの通説通り、ナチスには真正面から向かっていたようだ。
とても尊敬できる人だ。

それで、なんとかフォン・カラヤンだが。
どうもやはり好きになれない。
彼は自分が生きるためにそうしてきたのだろうけれど、わざわざ2度もナチス党員に
なることを自分から申し込んでいる。
それはナチスによって仕事を奪われないようにするためだった。

ワルターや他のユダヤ人演奏家は本当に時代に翻弄された。
ブルーノ・ワルターとかの戦争前後のことなど初めて知った。







8/05/2016

札幌1976年 航空写真 つづき

購入したのは大通りの西20あたりから宮の森あたりまでの範囲なのだが、
けっこうきれいに見えるので他の部分も欲しくなってしまう。
ただこの1枚が¥5000近くするのでうかつに他の部分を注文する気にもならない。

こまかな部分がみえると記憶と違うことがけっこうある。
大通り西26の中通りあたりに沼があったように記憶しているのだが、
写真を見てみると材木置き場だったようだ。たぶんここに雨水がたまっていたのだろう。
あるいは除雪した雪置き場になっていたのかもしれない。それが春になって溶けて水たまり
になっていたのかもしれない。
1974年ころの大通りは13丁目あたりから西はまだ工事中で砂利道だったように思う。
確か1974年ころに研修できた時、15丁目あたりを歩いた時ぬかるみだったように思う。

<追記>
この材木置き場のあたり全体を見ると左斜め上からこの場所に流れ込み、下に流れている
ような川の形跡が見える。これは川だろうか?と古い地図を見ると山鼻あたりを源泉として
途中琴似川になって茨戸まで流れていた川があったようだ。

円山市場の並びは昔のことを思い出させる。
フードセンターの向かいにドンクのパン屋があった。その先の並びのどこかに知り合いの
トンカツ屋があるはずだ。それがどれかわからない。
でもそのうちの1件は今でも残っている。先日行って確認した。

円山市場の先が駐車場で駐車場のはずれに「みよしの餃子」のお店があった。
写真で、ここがそのはずだ、と思う。

写真の下の世界は確かにこの時街は活動して人々は、自分も含め、この街で生きていた。
実際の航空写真を撮った飛行機はたぶん2000メートルくらいの高度だったのだろうか。
それを切り取って、この写真のように見ると高度300メートルくらいから見ている感じだ。
降りるとしたら円山市場の屋上しかない。
降りられたらいいのに、と思う。



8/04/2016

札幌1976年 航空写真

国土地理院の航空写真のサイトで元データのコピーを売っている。
1200dpiだ。
それはどのくらい見えるのだろう?
と興味が湧くと止められない。
それで1枚の航空写真が1976年でエリアがちょうど私が住んだ場所を網羅していた。
それを購入した。
2,3週間かかると書かれていたけれど、ずっと早く届いた。

CDに入ったデータは確かにでかい。
tifなのでフォトショップで開いた。
Google Earthよりも少し細かい感じだ。(訂正Google Mapと同程度か少し粗い)
車はなんとか判別できる。

写真の日付は1976年9月24日だ。
これを調べると金曜日だ。
写真の欄外に時計が写り込んでいる。
2時15分だ。
ということは私が赴任して2年目の金曜日の昼だから、私は会社で仕事をしてるはず。
この時は車はチェリーF2の白だ。

会社に車で行くときは傍の工場長の家の脇に停めていた。
その場所を見る。

左右に大通りが走り、その少し上の右端の緑の多いブロックの中に建っているビルが
会社が入ってたビルだ。
私の車はその周辺にあるはずだが、無い。
このあたりは当時も駐車禁止だったから停めるとしたら工場長の家の脇なのだが。
あるいはその近くに下宿してた家があるのでその脇か?とおもったけれど無い。

そうすると車では行っていないのだろうか。
それで今度はアパートの方を見た。
アパートは茶色の長い屋根が2本並んだところだ。
「宮の森バードマンション」と言った。
その入り口に白い車がある。
他の車と比較すると後部の窓ガラスはセダンではほとんど写らないようだ。
私のチェリーF2は後部はハッチバックになってやや広めのガラス窓だった。
写真を見ると後部窓は大きく写っている。
たぶん、これだ。

でもどうしてアパートの外に置いているんだろう?と思った。
いつもは管理人さんの部屋の前に置かせてもらっていたはずだ。
よーく、思い出してみると、管理人さんが「置いていいよ」と言ってくれたのは
すこし後だったような気がする。
さらに思い出すと、この写真にある場所にいつも停めていたから冬は毎日ここの
雪かきをしていた。前の電信柱のところに山のように雪を積んでやっと車が停められた。
そんなことを思い出した。

ということは、私のチェリーちゃんは私が戻るまでこの路上で待っていたわけだ。
今だったら、怖くてそんなことはできない。

この航空写真はとても面白い。
昔のそのままがそこにあるような気がする。

ストリートビューがあればいいのだが。。

8/01/2016

サハラ夢美術館

時々美術館に行きたくなる。
春に行った札幌の近代美術館は良かった。
展示もよかったし、学芸員の人と長話もできた。

今住んでいる都筑区に美術館はあるだろうか?と検索したことがある。
1軒だけあるようだった。
ホームページを見るとなんか変な宗教じゃないのか?という第一印象。
でもどうやら個人の人が自分の作品を展示しているらしい。
いつか行ってみよう。

と思ってから半年以上経っている。
昨日の日曜日は急ぎの仕事もなかったので、行ってみようと思った。
どうも駅は中川駅で降りるらしい。
家から2駅地下鉄に乗って、中川で降りた。
記憶で、こっちだろう?と思って歩き始めた。
最初から地図を確認してあるくのは好きじゃないから、
まあ、それで失敗することが多い。
歩き始めたのはいつも自転車で走っているあたりだ。
だいぶ歩いてから「どうもちがうなあ」と思いはじめ、
スマホの地図を見ることにした。

かなりちがう。
しかたないからわかりやすい早淵川まで出て川に沿って歩いた。
雨が降ってきた。
強くならないといいな、と思っているうちに激しくなってきた。
民家の庭の木立が雨をしのいでくれた。
しばらくすると弱くなってきたので、また歩き始めた。

だいぶあるいて、目的地に近くなった。
ちょっと坂を上ったところにその建物はあった。
ちょっと古風な円柱形の建物だった。
何か貼ってあって営業はしているようだった。
インターホンを押すように書いてあったので押した。
しばらくして女性がドアを開けてくれた。

500円を払って、地下の展示室に案内してくれた。
広い部屋の壁に沿って絵が展示されていた。
端から見て行った。

絵は精神世界を描いたような感じの絵だった。
自分としては好きなタイプの絵だった。
描かれている一つ一つ、背景に至るまですべてに意味があった。
また、模様に見える部分も全て何かを象徴していた。

もっと宗教がかった絵を予想していたけれど、全く違った。
いや、描かれている世界は宗教にのめりこんだ人が見ると
宗教的に見えるかもしれないけれど。
宗教がかった絵とは決定的に違うものがあった。
祈りが無い。
祈りが聴こえて来ない。
静かにその「場」だけがそこにあり、
それをただその場に居て見ている。
「アポカリプス」
と書くとどこかの宗教になってしまうけれど、
まあ、そういう感じだ。

たぶん私があまり時間をかけて見ていたので心配になったのかもしれない
沙原秀さんが階段を下りてきた。
絵についてそれぞれの絵を話しながら見た。
それから上の喫茶室に行って話をした。
沙原さんが画集を開いて説明してくれた。
それからの会話の展開は私が好きな内容だったので
2時間以上話をしてしまった。
途中ある絵を見ながら
「これは、あれ、あの人の絵…」というので私もすぐにわかった。
わかったけれど、名前が出てこない。
しばらくして私が思い出した。
「マグリット!」。
二人で大笑いした。

その手の話をするのは先日の札幌の近代美術館以来だった。
とても楽しい一日だった。
また来ることを約束してそこを後にした。

帰りは早淵川にそって家まで歩いて帰ることにした。
強い日差しだった。
日陰を選んで歩き、途中から都筑中央公園に入ることにした。
公園の森の中の階段を上っていると、雨が降り始めた。
すごく強い雨だった。
広葉樹が雨の傘になっているところを見つけて
しばらく一人でそこで過ごした。
美術館に居た間だけ空は青空だったのが不思議だ。
雨はなかなか止まなかった。
小枝を伝って雨が頭に落ちてくる。
冷たい。
この感じは子供の頃にもあったなと思い出した。

雨が弱まってきてそこから移動すると、別の木の下で
何人も同じように雨宿りしていた。
雨があがり皆三々五々移動しはじめた。

空を見ると真っ白な入道雲の下にいたことがわかった。



本当は違うけれど、あの美術館は公園の森の奥にあるような気がする。