稲垣足穂も植草甚一も70年代から良く読んだ。
稲垣さんは76歳で亡くなって植草さんは71歳だったようだ。
どちらの人も当時はすごい爺さんだと思っていた。
だけどもう既に植草さんを追い越し、稲垣さんにあと少しだ。
どちらも明治生まれだった。
どちらの人とも会ったことはない。
本の中でだけだ。
もう一人70年代私の身近にいた爺さんが物部長興さんだ。
お間思い出すとたぶん60歳くらいだったと思うのだけど、
今の自分より歳をとっているように思えた。
最後に見かけたのが1980年頃だったと思う。
車に乗って吉祥寺を走っていたら道を歩いていたのを見かけた。
物部さんの病院はべ兵連やその他の学生運動家の集まる場所になっていた。
前に書いたと思うけれど核マルと中核が一緒にいた。
他のセクトの人もいたし、企業の運動家もいた。
物部さんは運動で怪我をした学生の治療をしたり、
催涙弾の危険性について社会に訴えていたりした。
反戦自衛官を匿い助けたのも物部さんだった。
60年代から「ちょうちんデモの会」というデモ行進を
吉祥寺から三鷹駅までやっていた。
確かまだ続いているように思う。
ちょうちんデモのメンバーはべ兵連の人や企業内の運動家の人
日中友好協会の人、高校生の運動家や
・・・
ああ、今顔を思い出した。男と女の二人だった。
女の子は可愛らしい顔立ちだった。いつも一緒にいた男の子は
細い感じのイケメンだった。二人は無着成恭さんがいた学校に通っていた。
無着さんはかろうじて昭和生まれだ。96歳まで生きたようだ。
無着さんがデモに加わったかどうか記憶に無いが、
学校では過激な発言をしていたと言っていた。
・・・大学生の運動家など雑多な人達だった。
中に物部さんがいたのでお互いが言い合いになるとかいうことは・・
無かったように思うけれど、あったような気もする。
新宿や井の頭公園や吉祥寺駅で歌を歌っていたフォークゲリラの
仲間も加わっていた。だいたい先頭でギターを弾いて歌いながら
歩いた。
外からみたら「あれは日共か?」と思われただろう。
そういう感じのデモだった。
そうか、無着さんは96まで生きたんだ。
もう少し頑張るかな。